福島香織記者のブログを読んで

自社のことについても正直な報道姿勢で定評のある産経新聞福島香織記者がブログで、苦労しながら政治部の番記者の仕事をこなしていることを書いていているんですが、

雑談2 いつまでたっても慣れない総理番のお仕事:イザ!
http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/882883

 自分の番をしている政治家が出世(?)すれば、その番記者の政治部内でのポジション(?)もあがる傾向にある。麻生番の人は、麻生さんが政調会長であったときは政調会長番、幹事長のときは幹事長番となる。麻生さんが総理になると、麻生番記者が官邸キャップになることが多いかもしれない。官邸キャップとは官邸発のニュースの責任をにない、出稿方針にも最も影響力をもつポジションで、麻生番が官邸キャップになると麻生政権に擁護的な記事が多くなる、かもしれない。
(中略)
 政治部記者とは国家権力の中枢に一番近い場所にいる。ある先輩記者は私が政治部にいったときいて、「権力に近い場所にいくことと、自分が権力をもっていることとは違うから気をつけよ。政治部の記者の中にはそこを勘違いするヤツがいる」と忠告してくれた。また「政治家は記者を利用しようとするし、記者は政治家に利用されてもネタをとりたい」と言う人もいた。まあ、私は今のところ、ヒラの総理番記者なので、そういう権力ゲームに荷担することのおもしろさとか優越感を感じるような場面には出会っていない。いずれ、そういう世界もかいま見ることになるのだろうか。

この部分を読んでて、あぁ、そういえば産経の元首相官邸キャップに阿比留瑠比という、ジャーナリストであることを放棄し、批判することを忘れ(政敵への批判は忘れませんが*1)、権力と一体化してしまった「勘違いしたヤツ」がいたよなぁと思った。*2

上杉隆氏も著書「ジャーナリズム崩壊」のなかで
p30.31

 基本的にジャーナリストとして優れた記者は政治部では生き残りにくい。なぜなら、取材をすればするほど、担当する政治家の不利な情報まで知りうることになってしまうからだ。仮に、そうして得た情報を読者や視聴者のために報じたらどうなるだろう。おそらく、その政治家は失脚し、同時に記者自身にも社内で同じような災難が降りかかることになるだろう。

その結果、担当する政治家への批判は必然的にタブーとなり、会社員としての生き方を選択することになり、オブザーバーではなく、政治家に寄り添うプレーヤーになっていくのであると書き。続いて、
p31

 安倍政権崩壊時に、そのブログで自身の失意をつづった産経新聞の阿比留瑠比記者や、内閣退陣で涙を流した元共同通信青山繁晴氏などは、政治権力との距離感を忘れた派閥記者といえる。

 もちろん記者といえども、選挙権を持った国民のひとりであることが多く、どのような政党を指示しようが、また政治家を推そうが自由であるべきだ。しかし、自身のそうした政治信条を報道の場に持ち込んではならない。そうした行為は記者本来の仕事から大きく逸脱している。

と書いています。もっとも、ここだけ読むと政治部記者ってそんなヤツばっかりなのかよ、と心配になりますが、上杉氏はこのあと、大部分の記者は福島香織記者のように政治家との健全な距離感を保ち、まじめに記者の仕事をしているとも書いています。


【追記】

ブコメを見てみたのですが(こちら)、誤読されている方がいるようなので追記させてもらいます。

最後の行に「福島香織記者のように」と書いてある部分は、自分が福島記者は政治家と距離感を保とうと努力している健全なジャーナリストに入ると思ったので書いたものであって、上杉氏が著書「ジャーナリズム崩壊」のなかで彼女の名前を出しているわけではありませんので。誤解されるような書き方をしてしまったことをここにお詫びします。

*1:今年に入って初めて阿比留blogをヲチしてみたんですが、あいかわらず民主党とその支援団体である日教組へのネガティブキャンペーンに熱心なようです:http://abirur.iza.ne.jp/blog/list/month/200901/

*2:アメリカのワシントンにも1人、勘違いした困った記者がいますが(苦笑)