浜田知明の山西省での従軍体験(1)

4ヶ月ちかくブログの更新をしていなかったので、今日も少し前のことになるが書いてみる。
9月のことになるが、ぼくは葉山にある神奈川県立近代美術館へ『浜田知明の世界展 - 版画と彫刻による哀しみとユーモア』を見に行った。

入り口の写真


浜田知明は初年兵として中国の山西省へ従軍し、そのときの戦争体験を銅版画にした<初年兵哀歌シリーズ>(1950〜54年)で知られるアーティストで、今年、92歳になるが、いまも現役で活躍!している。

最も有名なものは1954年製作の、三八式歩兵銃の引鉄に足の親指をかけている、どこか水木しげる風タッチな「初年兵哀歌 歩哨」という作品であろうか。

ヒロ画廊/浜田知明/作品
http://www.hirogallery.com/hamada-works-et-jp.html


初年兵哀歌 歩哨 - 1954


軍隊の内務班で私的制裁が横行したことはよく知られるところであるが、浜田自身も、その非人間的な行為に耐えられず、自殺を考えたこともあったという。

一兵卒としての体験の一端を浜田はこんな言葉にしている。

戦場で死ぬことは恐ろしくなかった。肉体的苦痛は耐えられないことではなかった。ただ軍隊という機構の中に充満している矛盾と、人間不信、心の底に微かに灯っている最後の人間性までをも奪いつくそうとして、目に見えぬ糸でひしひしと絞めつけてくる恐ろしい力にはやりきれなかった。


ヒロ画廊/浜田知明/作品
http://www.hirogallery.com/hamada-works-et-jp.html


初年兵哀歌 銃架のかげ - 1951

陣地 - 1953


笠原十九司南京事件三光作戦』によれば、浜田が従軍した1940年から1943年にかけて華北山西省では、日本軍は各地にトーチカ(砲台)を分散させて築き、10人前後の少数の分遣隊を「高度分散配置」していた。分遣隊長には主に伍長、軍曹といった下士官がなり、この分隊長の個性が部隊の軍記と雰囲気を決定していたという。
同書には、浜田と同じように初年兵で山西省へ出征した元兵士の証言として、分遣隊生活では兵士の心はすさみ、人間的に住めるところではなかった、八路軍との戦闘あるいは討伐中に背後から撃ち殺してやりたいと思っていた上官や古年兵はかならずいたものだ、という述懐も紹介されている(参考:同書p.174)。


まだまだ紹介したい作品がいくつもある。エントリがかなり長くなりそうや!
なので次回に続くとする。


■追記

・副題:浜田知明が銅版に刻んだ三光作戦
 浜田知明の山西省での従軍体験(2) - dj19の日記:
・副題:浜田知明が銅版に刻んだ戦時性暴力
 浜田知明の山西省での従軍体験(3) - dj19の日記


■参考文献
神奈川県立近代美術館浜田知明の世界展』図録 2010年
笠原十九司南京事件三光作戦 - 未来に生かす戦争の記憶』1999年

南京事件と三光作戦―未来に生かす戦争の記憶南京事件と三光作戦―未来に生かす戦争の記憶
笠原 十九司

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