公娼制度は国家公認の人身売買による奴隷制度:1910年代〜1930年代

次のような「慰安婦=公娼=売春婦」論は、従軍慰安婦の問題を否定する論者によってこれまで何度も繰り返されてきました。


 日本維新の会平沼赳夫は、旧日本軍の従軍慰安婦問題について国の関与を否定した上で「従軍慰安婦と言われている人たちは“戦地売春婦”だと思っている」「昔は公娼(こうしょう)制度があり、戦地売春婦をしていた女性が訴訟を起こしてきた」と述べた(参照:*1)。


当時は公娼制度があり合法化された「売春婦」だ、だから何ら問題はないという認識は、軍慰安所で売春を強制されようが、性暴力を受けようが、何ら問題はないと言っているに等しく、こうした認識はいかにも短絡的で、差別的ではないでしょうか。

さらに言えば、当時すでに内地において公娼制度は当然のものではなく、公然と存在しえなくなっていた事実を無視しています*2。当時すでに公娼制度は、国家公認による人身売買、自由拘束による強制、人権の蹂躙、奴隷制度、重大な人道問題などと現在の慰安婦制度への批判と変わらぬ批判がされていました。


当時の認識を以下にまとめてみました。


1916(大正5)年6月4日 〜 1916年6月14日までの連載記事、第1回
京都日出新聞
「花柳病及び性慾より見たる公娼問題 (上) 医学博士 松浦有志太郎氏談」

(前略)
公娼制度は人権を蹂躪し倫理を無視したものであって、人権上及び風教道徳の上から見て其の存置の理由がない
(中略)
しかるに反対論者(公娼存置論者)の多くは皆言う、公娼の廃止は誠に理想としては至極賛成であるが現実に於て必要であるを如何せんと云うにある、そして余等の説を以て空論であるとし現実の前には理想が何の役に立とうと云う口吻である、
(中略)
泰西(たいせい:西洋諸国)に於ける奴隷制度の如きも之れを廃するには随分骨の折れたことであったであろう、それも廃するまでは理想であったが、廃止さるれば、それが現実である、斯く国家が断行するの意志さえあらば必ずしも至難不可能のことでは無い、何ぞ単(ひと)り我国の奴隷制度である公娼を廃止することのみが不可抗力の現実であろうや、彼の反対論者(公娼存置論者)達は何が故に此の不正不議である現実を永久に固守せんとするのであろう、現実を以て最大権威であるとして之れを是認し敢て之れを改革しようとせないならば、如何して吾々人類社会が向上進歩することが出来よう、反対論者たる永井医学博士は四月の雑誌『新日本』紙上に於て、歴史上には古るくから淫売婦が存在したものであるから今日之れを排除するのは困難であると云われたが、歴史が如何に古るいとて其れが将来永久に存在の理由とはなるまい、社会は人智の開発するに従って人権は尊重せられる、奴隷の売買の如きは全然廃棄せられて居る、公娼問題のみが歴史に依って永久に存置せられねばならぬ理由はない(以下略)


(新聞記事文庫 - 神戸大学付属図書館:http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10056401&TYPE=HTML_FILE&POS=1より引用)


1919(大正8)年1月27日
大阪毎日新聞
「時局と宗教問題 愛の精神を以て一切の社会問題を解決せよ 山室軍平

(前略)
日本の公娼制度は、立派な事実上の奴隷制度である、所謂前借金は依然として、昔ながらの身代金である
(中略)
貸座敷業者は斯くして勝手な貸借関係を作製し、詐欺をして人の娘を喰物にして居るのである。又私共の同胞姉妹を奴隷として虐使して居るのである、西洋諸国では今や婦人の位地が大に認められ、英国の如き保守的の国でさえ、今度は六百万の婦人が新に選挙権を獲得したという世の中に、日本には右述ぶる如き無類の奴隷制度が、公々然として政府の保護の下に行われて居るのである、之が若し諸君の娘や妹の上であったら能く其の儘(まま)に棄て置き得るであろうか、私共は茲に大に愛の精神の発揮せられねばならぬ方面を見出すのである。(以下略)


(新聞記事文庫 - 神戸大学付属図書館:http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10067531&TYPE=HTML_FILE&POS=1より引用)


この後、1920年代に入ると、帝国議会には廃娼法案が提出され、大きな議論を巻き起こします。その背景には、国際連盟のもとで1921年に調印された「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」の存在がありました。

これは売春を目的とした女性・子どもの人身売買を国内はもちろん国際間においても禁止するもので、その対象は満21歳未満とされていました。しかし日本では娼妓取締規則において満18歳以上の女性に売春を認め、事実上、前借金という名目での人身売買が横行していたため、1921年10月、原敬内閣は年齢条項の保留と、朝鮮・台湾・樺太・関東州(満州の一部)など植民地・准植民地の対象からの除外を条件にこの国際条約に調印し、そして条約は1925年9月16日に批准されました。これに対し年齢条項の保留には国内で批判が起こり1927年、政府は年齢条項の保留を撤回しました。

こうしたなか、公娼制度の存在そのものを問題にする世論は高まります。廃娼は政治問題として浮上したのでした。この時期の「外務省記録」を分析した小野沢あかねは、「外務省のみならず内務省をも、公娼制度を将来抜本的に改革する必要があるとの認識に至らせた」(小野沢あかね「国際連盟における婦人および児童売買禁止問題と日本の売春問題 - 一九二〇年代を中心として」)と指摘しています。

(参考:藤野豊『性の国家管理 - 買売春近現代史』不二出版,2001年,p.81 第二章 廃娼運動の高揚と「花柳病」問題 第四節 「廃娼法案」の登場)


1925(大正14)年8月29日
東京朝日新聞
社説「婦人売買禁止条約 公娼は廃止できぬか」

公衆衛生の為と云ふか。良家の婦女の貞操保護の為と云ふか。人間は決して手段であってはならぬ。五万の婦人の肉と心を犠牲とし人身売買自由拘束の事実を国家が公認する制度は、百の陳弁を以つても許すことは出来ないはずである人道を叫ぶもの、社会改良を唱ふるもの、婦人の権利を主張する者が我が国にあるならば、此の如き制度は、国際連盟総会からの注意を受けるよりも前に自ら廃止すべきである。繰返して云ふ専ら売春を業とする婦女子と、婦女の売買により生活する営業者を、国家が法を以て公認し保護する事実は、文明国の名誉、国家の倫理よりして一日も存在を許し難いものである。吾人は此の機会が、公娼廃止運動ぼつ興と成功の機会であらんことを望む。


藤野豊『性の国家管理 - 買売春近現代史』不二出版,2001年,pp.93-94より引用)


公娼制度を「必要悪」とする論理の延長線上に慰安婦制度がつくられていくわけですが、この社説から100年近く経った現在、日本政府が国連の委員会から慰安婦問題に関して様々な勧告や注意を受けている現状*3を思うと、感慨深いものがあります。


1925(大正14)年9月9日
国民新聞
社説「婦人売買禁止と留保」

  一   
婦人売買禁止条約に対して我が政府のとつた措置は如何なる点から観ても、決して認容すべからざる近来の一大失態である。それも事前に於て十分に考慮するの余裕がなかつたとか、若しくは咄嗟のあひだに、誤つてあのやうな失錯をしでかしたとか云ふことであれば、それは多少情状酌量の余地もあらう。然るに今回問題になつた婦人売買禁止条約は1921年に成立したもので、それ以来すでに満4年を経過してゐる。即ち政府としては満4年間考慮に考慮を重ねた上で、今回いよいよ批准の手続きをとることになつたのである。然(し)かも満4年間、政府が考慮に考慮を重ねた結果が最近、枢密院に於て問題となつた2個の留保であると云ふに至つては、実に御念の入つた一大失態と云はねばならぬ。
  二   
婦人売買禁止条約の目的とするところは「醜業に従事せしむる目的を以て未成年の婦女を誘拐し誘引し、若しくは拐去したもの」を処罰するにある。これは何人も異議のあらう筈はない。そして1921年の条約では、1910年の条約に売買の目的物たる婦人の年齢を満20歳としてあつたのを満21歳と訂正したのである。満20歳を引き上げて満21歳とした理由は、これによつて更に婦人売買の範囲を制限せんとするにあるは勿論であつて、此の年齢の引上を規定した第5条こそ実に本条約の生命である。従つて我が政府として1921年の国際条約に加入すると云ふならば、よろしく此の趣意にもとづき、全くの無条件で加入するが当然であつた。

 三
政府は満21歳とすれば国内法に抵触するかの如く云つてゐるが、これは全然事実を無視したる弁解である。此の場合、国内法と云ふのは刑法を指すことは勿論である。然るに我が刑法は第224条、第225条及び第226条に於て、誘拐其の他の手段により未成年者を帝国外に移送するものに対し、之を処罰することを規定してゐる。即ち未成年者の誘拐に対してこれを保護することは明らかに我が国内法の命ずるところである国内法との関係上、満21歳を18歳に引下げねばならぬ理由はすこしもない、また我国に於ては公娼制度がおかれてあるばかりでなく、其の方面に於ては満18歳を以て標準年齢としてゐるので、政府は此等の事情に鑑み、それと釣合を取る必要上、年齢の引下げを条件としたのであると云ふ説もあるが、若しさうだとすれば、其の結果は少数なる営業者の利益を保護するために国家の対面を犠牲に供して顧みざる言語道断のやりかたと云はねばならぬ。

 四
元来、婦人売買禁止の如きは重大なる人道問題であつて、それがだんだん国際問題として取り扱はれるやうになつたことは1921年の国際条約が成立するに至つた経路(ママ)を見ても明白である。即ち1921年の国際条約の前には1910年の国際条約があり、1910年の国際条約の前には1904年の国際条約がある。即ち此等の3条約が相集まつて婦人売買禁止に関する国際条約の三部を作成してゐるある。然かも此等の条約が成立したのは、表面に於ても裏面に於ても、人道論者の大なる努力の賜である。日本は比較的おくれて此等の会議に参加したのであるが、然し政府にして、より多くの道義的観念を持つてゐたならば、たとひおくれたりとは云へ、あのやうな留保をなす以外多少なりとも列国から感謝されるやうな積極的行動に出づることが出来たであらう。然し今となつては、もはや云つても仕方がない。ただ政府としては今回の失態を鑑みて、よろしく自ら其の将来を戒むべきである。「近き将来、適当の機会に於て2個の留保を撤回する」だけでは、決して政府の罪ほろぼしにはならない。


(「従軍慰安婦」問題 資料NO4 婦女売買関係条約と報道:http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2012/05/post_33d7.htmlより引用)


1926(大正15)年4月28日
福岡日日新聞 社説

本問題は、単なる事務的見地より取り扱ふべき問題にあらず、人類道徳の最高理想に立ち、国際社会厳粛なる体面論より直視達観すべきもので、些々(しょうしょう)たる取締問題の如きは、根本方針の決定に、多くの交渉がない内務省が『現行法規を此(こ)のままとして行政官の運用上娼妓保護の実を挙ぐるの可否』を問はんとするは、殆ど問題の価値なきもので、少しく今日の実際を知るものは行政官の手心に於(おい)て、娼妓を保護すると云ふが如き、断じて実行不能の事であって、事の結果は、一方には却(かえ)って娼妓に対する実力上の厭迫(えんぱく)を弛(ゆる)め、他方には現在に於いてあるが如く、益々(ますます)行政官の腐敗墜落を来たすに終わる事は、火を見るよりも明らかである。又取締法を改廃して、少しくらい自由を増し、保護を加ふると云ふも、遊郭と云ふ組織の存在する間は、到底保護の実を挙げ難きは、何人も看取せざるを得ぬ。自由廃業と云ふ法律上の決定が、今日如何(いか)に取扱はれつつあるかを知るものは、少しく自由を増し、保護を加ふると云ふが如き、児戯(じぎ)に等しき題目に、一瞥(いちべつ)をも興(あた)へぬであろう。
要するに、問題は、公娼と称する奴隷制度を存続せしむるか、廃止するかである。全国五萬の可憐なる同胞子女を、鉄鎖に繋いで、公然として姦淫することを、国家の名に於いて、許可するや否やである


国立国会図書館のデジタル化資料:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018722:川崎正子『公娼制度撤廃の是非 – 諸方面よりの総合的研究』婦人新報社,1926(大正15)年6月23日,pp.58-59より引用)


わかりやすく書くと、娼妓取締規則をそのままにして行政官が娼妓を保護するといっても、そんなことは実行不可能なことであり汚職を招くだけである、また、公娼制度の実態を知る者にいわせれば、遊郭という組織が存在するうちは現在の法規定を改め自由や保護を少し加えたぐらいで成果を上げるなんてことも難しく、問題を解決するには公娼制度と称する奴隷制度を国が許可するか止めるかの選択肢しかない、といった感じでしょう。


1926(大正15)年5月5日
國民新聞 社説

公娼の悪い所は事実に於いて自分の意志ではなく全く他人に強制せられて其の身を売る、而して政府が公然之を認めると云ふ其の主義精神が根本に於いて非倫、残酷、非人情であるからである


国立国会図書館のデジタル化資料:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018722:川崎正子『公娼制度撤廃の是非 – 諸方面よりの総合的研究』婦人新報社,1926(大正15)年6月23日,pp.60-61より引用)


公娼制度の悪い所は、自由意志ではなく強制されて身を売らされていること、そして政府が公然之を認めてることが根本に於いて残酷だからである、と批判されています。慰安婦制度について強制連行の有無だけが問題だ!を連呼して矮小化する現在の風潮よりも、当時のほうが何が問題の本質かしっかり捉えているというのがなんとも…。


1927(昭和2)年3月1日
第五二回帝国議会に提出された「公娼制度並廃止ニ関スル法律案」理由書

公娼制度は一種の奴隷制度にして人道に悖(もと)り風紀衛生教育上有害無益の悪制度


(藤野豊『性の国家管理 - 買売春近現代史』不二出版,2001年,p.85より)


1928(昭和3)年12月8日
福井県会(県議会)で採択された公娼廃止の決議

公娼制度は人格の尊厳を知らさりし封建時代の遺風にして、風紀・衛生・教育上有害無益なるのみならず、国際条約を無視し帝国の体面を傷くる悪制度なれば、速に廃止を実現されんこと望む


(出典:『福井市史』資料編 『大阪朝日新聞』昭3・12・18:http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-4a5-01-02-05-05.htmより引用)


1928(昭和3)年12月8日
埼玉県会「公娼廃止決議」の英断と東京日日社説での論評。【1928昭和03年12月08日/東京朝日(夕刊)】

今日まで公娼制度の存続は、人間必然の要求から出発する不可抗な制度だと考えられていたに拘わらず、この数年来公娼制度廃止の声がほとんど全国的に行きわたりつつあるのは欣ばしい。……その標榜する理由は、第一に、白奴隷の存在がいかなる事情にあっても許し得ない人道の蹂躙であり、堪え得られざる文明国の体面の汚辱だとすること、第二には、たといいかなる方便であるにせよ、風教道徳の本元であるはずの政府が、公に売淫を認むるのみか、その居住移転の自由を制限して大っぴらに営業せしむるごときは、人道を無視し家庭の平和を脅かし、ひいては社会の善風美俗を破壊する大きな矛盾であるというのにある。今回埼玉県会が「時代と相容れない」ものとして公娼制度の廃止を満場一致をもって通過したのは、思うにこれとその主義、精神を同じくするものであろう。ただ残る問題は、公娼の廃止が私娼の跋扈となり、病毒の蔓延を来すという点であるが、これは花柳病予防にカンする法律の励行と、国民自身の自制と注意に待つ外はない。
[出典:毎日コミュニケーションズ出版部編 昭和ニュース事典 第1巻、p.602.]


(戦前に日本で使われていた”白奴隷”という単語:http://ianhu.g.hatena.ne.jp/kmiura/20070720/1184951789より引用)


1930(昭和5)年 12月
神奈川県会(県議会)で採択された決議

公娼制度は人身売買と自由拘束の二大罪悪を内容とする事実上の奴隷制度である


吉見義明『日本軍「慰安婦」制度とは何か』岩波書店,2010年,pp.42-43より引用)


1931(昭和6)年2月19日
帝国議会公娼制度廃止ニ関スル法律案委員会」での浜口雄幸内閣の外務政務次官・永井柳太郎の答弁

公娼制度は)人間の人格並自由と矛盾した制度……一種の奴隷制……出来るだけ速やかに斯の如き制度が廃止せられて、人間の人格の尊厳と自由とが確認せらるる社会の建設せらるることを希望する


(藤野豊『性の国家管理 - 買売春近現代史』不二出版,2001年,p.86より)


この時期、外務省は廃娼の方針であったことがわかります。


1931(昭和6)年4月5日
報知新聞
「国際信義と公娼廃止」

日本帝国は、最初、この条約(婦人児童の売買禁止に関する条約)に加盟しながら、しかも、二十一歳という年齢の制限について、留保を求めて調印したのであった。それは今でも現に行われて居る、「娼妓取締規則」には、娼妓の年齢が、十八歳以上と規定してあるがためであったことはいうまでもない。しかし、その年齢留保を、文明国としての汚辱であるとして、当時、官民有志の間に、速にこれを撤廃すべしという主張横溢し、ついに、今日では、日本もまた、この国際条約の、完全なる加盟者となったのである。
完全なる加盟者とはなったのであるが、それはただ、単に条約に調印したというだけであって、毫も条約を実行してはいないのである。即ち、条約に調印して以来数年を経たる今日、依然として、「娼妓取締規則」の、十八歳以上の婦娘は、売淫してもよいという条項に対して、何等の改正も撤廃も行われず、十八歳以上二十一歳以下の婦娘が、彼等の中の大多数であるという事実をそのままに放置して、何等、国際信義を重んずるという国家的正義が、現れて居ないことを慨かざるを得ないのである。
今や、国際連盟は、極東方面における、婦女売買の状態を、極めて仔細に調査研究するために、調査委員を派遣することに決し、そのために、ロックフエラー財団より十二万ドルの寄附を受け、既に、三名の調査委員は、支那までやって来て居る。日本に来るのは、五月下旬か六月上旬かというのであるが、彼等が、事実上の人身売買であり、事実上の奴隷制度であって、五万有余の女性が、牢獄にもひとしい座敷に押し込められ、動物にもひとしい醜悪なる非人道なる所行を、強要せられて居る実状を調査した時、自ら称して日東君子国といって居る日本にも、また、かかる残忍非道の世界あるかに、驚き且つおそれることであろう。
否、それよりもむしろ、彼等は、婦女禁売の国際条約に、加盟調印したる世界の一等国たる日本が、全然その条約を履行せざるのみならず、かえって、これを蹂躪して、いささかもはづるところなき、厚顔と不信と不義とに憤るであろう、あきれるであろう、そうして、従来、日本を買いかぶって居たことを後悔するであろう。そうした後悔は、ついに、彼等をして、日本に対する軽侮の風を、世界にみなぎらしめるにも至るであろう。


(報知新聞記事に見る1931年当時の公娼制度に対する見方:http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20121001/1349105441より引用)


当時の公娼制度を批判する意見のなかには、人権よりも「文明国としての国家の体面を汚す」という理由の方が強調されたり、性病を「花柳病」と呼称した当時の認識からもわかるように存娼論者だけでなく廃娼論者のなかにも娼婦を性病感染の元凶とみなす賤視が含まれていたり、植民地(朝鮮・台湾)の女性たちへの視点が欠落していたりと、様々な問題や限界が含まれるものの、戦前において、公娼制度は何の問題はなく当然のものとまで言えなくなっていたことは事実であり、「公娼制度というものが全く理解できず、現在の感覚で過去を断罪しようと「公娼制度自体が、女性の人権侵害だったのだ!」と主張する者がのさばるようになってしまった*4」といったコメントは歴史オンチも甚だしいというしかありません。


関連リンク
慰安婦問題の討論・秦郁彦vs吉見義明、秦郁彦は歴史家の名を利用するのやめたらどうだろう - Transnational History 慰安婦問題の討論・秦郁彦vs吉見義明、秦郁彦は歴史家の名を利用するのやめたらどうだろう - Transnational History
性奴隷の定義を無視し「慰安婦は性奴隷ではない」と叫んでも反論になってない - Transnational History 性奴隷の定義を無視し「慰安婦は性奴隷ではない」と叫んでも反論になってない - Transnational History


参考書籍

性の国家管理―買売春の近現代史
藤野 豊
不二出版
売り上げランキング: 539,921

*1:2013年5月23日:維新の平沼氏「従軍慰安婦は“戦地売春婦”」 ― スポニチ Sponichi Annex 社会 維新の平沼氏「従軍慰安婦は“戦地売春婦”」 ― スポニチ Sponichi Annex 社会

*2:建前と実態には乖離があったとはいえ戦前において、全国47都道府県の半数近い21(22?)の県議会で公娼制度を廃止する廃娼議決が採択され、公娼制度を廃止した廃娼県は14県にのぼっていました。

*3:参照:(1)国連・社会権規約委員会が慰安婦に対するヘイトスピーチを防止するよう勧告:http://d.hatena.ne.jp/dj19/20130523/p2、(2)国連・拷問禁止委員会が日本政府に対し公人による事実の否定や元慰安婦を傷つける試みに反論するよう勧告:http://d.hatena.ne.jp/dj19/20130601/p1

*4:http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20130629/p1#cのPPP氏のコメント