明治39年「娼妓身売り契約」にみる搾取のひどさ

たまたま見つけたヤフオクに出品されていた明治39(1906)年「娼妓身売り契約書」。どうも読んでいくと搾取がなかなかひどいのでエントリにしてみました。


☆大坂新町遊廓◎明治39年「娼妓身売り契約書・他」生文書
http://page6.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f120766294

大坂新町遊廓は、大阪大空襲までは、島原・吉原に並んで栄華を極めていました。この地の遊郭に、700円の借金と引き換えに「八千代」19歳の娘を娼妓として身売りをする証文などの「生」文書です。遊廓を経営していた「T」氏(文書には氏名が明記)に関わる文書です。
◎契約書:大坂新町「T」氏宛の契約書 
◎承諾書:(1)清國営口永世街二本町に「娼妓」としての承諾書。
(2)清國営口永世街二本町に「酌婦」としての承諾書。
◎八千代の身元証明書(大阪市北区区長公印)
◎八千代の戸籍謄本写し
◎八千代に対する必要経費負(?)その内訳一覧
◎家附物及び諸物品売渡證書[明治36年]→共同経営者となるための「T」氏と「N」氏(身売りとは別人)間の契約書。
◎その他
◇氏名、住所には付箋をつけております。


(出品者の方で「営口」を「栄口」と、「永世街」を「永征街」とミスタイプしていた箇所はこちらで訂正した。)


落札したわけではないので知り得る情報は限られるとはいえ、一番上の「契約証書」と書かれた紙には「酌婦*1として」の給金を「18ヶ月間」「返償」(返済)にあてる、といったことが書かれているのがわかります。


しかし真ん中の画像、文面から「承諾書」と思われる紙には、清国の営口市にある永世街二本町というところへ「娼妓として出稼ぎ」に行くことが承諾されているのです。


ということは、この大阪・新町の遊郭業者(貸座敷業者)は、初めからこの「八千代」さんという19歳の女性を国外に連れ出し売春させる目的で買い取った、ということではないでしょうか。


明治39(1906)年という年は、日本が前年の明治38(1905)年に日露戦争終結させた翌年であり、日本はロシアから租借権と南満州鉄道の利権を獲得したたことで、それを契機にこの地域(満州)に多くの日本人が進出したことが当時の新聞にも書かれています。


そして一番下の画像なんですが、出品者が「八千代に対する必要経費負(?)」と書いているように、おそらく「700円」の前借金に含まれているだろう「内訳」が記載されています。ここには着物、浴衣、帯、コートといった衣服から、ふとん、行李(こうり:旅行用の荷物などを入れる蓋付きの箱)といった物まで様々なものが購入されているのですが、ここに書かれた金額を合計するとなんと計550円程にもなるのです。


ということは、700円の前借金からこの550円を引いた金額150円がこの女性が身売りされたことによって実際に親に払われたお金ということになるのではないでしょうか。本来は150円の前借金のカタに身売りされてきた女性に対し、550円近くもあれこれ買わせて前借金を一気に700円まで膨らませ長期間、拘束することでがっつり搾取するというのはかなりヤクザなやり口でしょう。


ここで気になるのが、一番上の画像「契約証書」にある拘束期間は「18ヶ月間」との関係です。この遊郭業者がこの後、満州までの渡航費用など様々な名目でこの女性の借金をさらに雪だるま式に増やしていったとしても廃業できればこの女性は不当な搾取から解放されて自由になれるわけです。当時の日本では明治5(1872)年の娼妓解放令と明治33(1900)年の娼妓取締規則によって、人身売買の禁止と廃業の自由が公的に認められたはずで廃娼運動も盛り上がった時期がありました。が、その後、大審院法廷で、前借金契約と娼妓稼業契約を別個の契約に分け、娼妓稼業契約は違法だが、前借金契約は有効だとして、前借金の返還を命じる判決を出しました。これによりお金を返せない娼妓は廃業が難しくなり、多くの女性は遊郭に拘束され続けたというのが実情のようです。(参考:牧英正『人身売買』岩波新書,1971年,pp.216-218


ちなみに当時の700円は現在の貨幣価値でどれくらいになるのか、こちらのサイト『昔の1円は今の何円?』を参考にすれば「ものすごく大雑把に」明治後半の1万倍ほどだそうです。そうすると現在の貨幣価値で700万円ぐらいに相当する借金をこの19歳の女性はいきなり背負わされたことになります。


ところで、ネット上だけでなく政治家のなかにも慰安婦制度を公娼制度との差異を無視*2したうえで当時は合法だったと正当化する人たちが後を絶たないわけですが、1936年に大阪府保安課が大阪府下の新町など遊郭の大がかりな調査をしたところ「法規の違反実に百五十件の多数」にのぼり、それに対する大阪府当局の見解は「現在の公娼制度が彼女たちにとってひどい搾取を意味し人道的にも見るに忍びないものがある」というものでした。
こちらを参照:1936年時の内地における娼妓の状況 - 誰かの妄想・はてな版 1936年時の内地における娼妓の状況 - 誰かの妄想・はてな版


関連リンク
公娼制は当時の日本では「当たり前」だったか? - Apes! Not Monkeys! はてな別館 公娼制は当時の日本では「当たり前」だったか? - Apes! Not Monkeys! はてな別館


参考書籍

人身売買 (岩波新書)
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牧 英正
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サンダカン八番娼館 (文春文庫)
山崎 朋子
文藝春秋
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植民地と戦争責任 (戦争・暴力と女性)
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*1:「酌婦」とは建前上は料理屋などで酒の酌をして客をもてなす人のことを指す。藤永壮『植民地公娼制度と日本軍「慰安婦」制度』によれば、日露戦争後には『日本内地や朝鮮において「酌婦」という名目で女性を「満洲」に連れ出しながら、実際には「娼妓」と変わらぬ形で身柄を拘束し「売春」を強要する詐欺事件をしばしば引き起こした。そしてこうした「言い換え」の方針は、のちに成立する「満洲国」にまで引き継がれることになる。』早川紀代 『植民地と戦争責任 (戦争・暴力と女性3)』吉川弘文館 ,2005年,pp.24-25

*2:一例だけあげると、慰安婦制度では公娼制度で形式上とはいえ保障されていた廃業の自由の規定がありませんでした。