満州の慰安所へ薬を配っていた衛生兵の記録

2013年5月16日 東京新聞 筆洗

黒竜江に近い駐屯地に/遅い春が来たころ/毛虱(けじらみ)駆除の指導で慰安所に出向いた〉〈オンドルにアンペラを敷いた部屋は/独房のように飾り気が無く/洗浄の洗面器とバニシングクリームが/辛(つら)い営みを語っていた〉


▼陸軍の衛生兵として、旧満州慰安所で薬を配って歩いた経験を基にした河上政治さん(92)の慰安婦と兵隊という詩である。十数年前に読み強く心に残った。続きを紹介したい


▼〈いのちを産む聖なるからだに/ひとときの安らぎを求めた天皇の兵隊は/それから間もなく貨物船に詰め込まれ/家畜のように運ばれ/フィリッピンで飢えて死んだ


▼〈水銀軟膏(なんこう)を手渡して去るぼくの背に/娘の唄(うた)う歌が追いかけてきた 〉。女性の出身地は分からない。薬を届けて帰ろうとした河上さんの耳に、彼女が口ずさんでいる歌が飛び込んできたのだろう


▼〈わたしのこころは べんじょのぞうり/きたないあしで ふんでゆく/おまえもおなじ おりぐらし/いきてかえれる あてもなく/どんなきもちで かようのか/おまえのこころは いたくはないか


▼性の営みという最も私的な領域まで管理、利用されるのが戦争だ。「慰安婦制度は必要だったと明快に言い切る政治家には、兵士を派遣する立場の視点しかない自らが一兵士として列に並び、妻や娘が慰安婦になる姿など想像できないのだろう


「慰安婦制度は必要だった」という @t_ishin の言葉に「そうだよなあ、本音をよくぞいった」と居酒屋でもりあがる悲しい男たちにならないように読んでおきたい、一文。 「慰安婦制度は必要だった」という @t_ishin の言葉に「そうだよなあ、本音をよくぞいった」と居酒屋でもりあがる悲しい男たちにならないように読んでおきたい、一文。より)

*バニシングクリーム = ひび割れ・あかぎれなどの改善に使用された
*水銀軟膏 = 毛虱の殺虫や梅毒に使用された



これまで数百人という元兵士たちへの聞きとりを行なってきた仙田実は次のように書いている。

吉田裕『兵士たちの戦後史』岩波書店 ,2011年,p.264より重引用

仙田実『昭和の遺言 十五年戦争 兵士が語った戦争の真実』文芸社,2008年

「実際に話をしてくれた(元兵士の)人々は、多く八〇歳前後からなかば、なかには九〇歳をこえた人もいた。彼らは人生の盛りに戦場に送られ、生死のさかいを何回も、また何年もさまよった。それは人生における死の初体験であり、命の終末をまぢかにしてさえも、意識の底に当時のままの姿で生きている。
 事実、私は何回か話しを聞くうちに、彼らの口からそれが奔流のごとくほとばしるーーあいだに鳴咽、感泣、慟哭(どうこく)がまじるーーのに接し、感動の涙にさそわれたことが幾度あったかしれない。戦争が終わって五○余年――人間の一生にとって、これはけっして短い歳月ではない。そのあいだ意識の底に生きつづけた彼らの痛切な思いや体験は、生半(なまなか)な言葉ではいいあらわせない深さをもっている。それはまさに「昭和の遺言」、しかもきわめて特殊な「遺言」である。これは人生二度目の死を目前にしての体験告白であり、懺悔なのである。」