渡嘉敷島での「集団自決」と「住民殺害」
大田昌秀「死者たちは、いまだ眠れず」(新泉社、2006年)P64〜67をテキスト化
以下、改行は引用者
(渡嘉敷島での)集団自決から生きのぴたある生存者は、そのときの模様をこう語っています。
「防衛隊員が二個ずつ持っている手投弾の周りに二、三十人が集まった。住民には自決用として五十二発の手投弾が用意されていた。……轟音がつぎつぎに谷間にこだました。瞬時にして老幼男女の肉は四散し、死にそこなったものは棒片で頭を打ち合い、カミソリで頭部を切り、斧、鍬、鎌を用いて親しい者同士が頭を叩き割り、首をかき切った。恐ろしい情景が恩納河原(おんなかわら)でくり広げられたのである。こうして三百二十九名の住民がみずから命を絶った。手投弾が不発で死を免れた住民が、軍の壕へ近づくと赤松隊長は入口にたちはだかり、軍の壕に入るな、すぐに立ち去れ、と住民をにらみつけた。赤松大尉の部下多里(たさと)少尉は住民の一人、座間味盛和(ざまみせいわ)にスパイの疑いをかけて斬殺した。一方、家族を失って悲嘆のあまり山中を彷徨していた古波倉樽(こはぐらたる)も米軍に通ずるおそれがあるという理由で高橋伍長の軍刀で殺害された。」(沖縄タイムス社編『鉄の暴風』朝日新聞社、一九五〇年)
その後、慶良間列島に上陸した米軍は、同年三月一三日、その一部を残して沖縄本島に引き揚げました。島の住民は、敵襲の恐怖からのがれて安堵したのも束の間、たちまち食糧難から自滅の危機的状況におちいってしまいました。そこへ米軍は、五月初旬に兵員を再上陸させ、すでに占拠していた伊江島(いえじま)の住民およそ一五〇〇人を渡嘉敷島へ移動させました。
その結果、わずかばかりの島の農作物はまたたくまに取り尽くされました。あげく島びとたちは野草や海草、貝類、とかげに至るまで、食べられるものは片っぱしから口に入れて、かろうじて生命を維持するありさまでした。
その間にも海上挺進第三戦隊の将兵は、住民が保有する食糧の五〇パーセントを軍に醵出(きょしゅつ)せよとの命令を下したあげく、「違反者は銃殺に処す」として強制的に住民の食糧を微発したとのことです。住民は飼育した家畜を屠殺することまで厳禁されたうえ、「一木一草に至るまで天皇陛下の所有物」だとして自分の畑から野菜をとることさえもできなくなりました。違反者は銃殺にされる、と脅されていたので住民は、自滅を前になす術(すべ)もなかったのです。
住民の証言によると、そのころ米軍に命じられて伊江島出身の若い女性五人と一人の男性が、赤松戦隊長のところへ降伏勧告状を届けさせられました。彼らは伊江島で捕虜になり、渡嘉敷島では他の地元住民から隔離されていたので、守備軍陣地内の異常な事態をまりたく知らなかったのです。そのため六人は一人残らず捕えられ、各人自らの墓穴を掘らされたあげく、後手にしばられ斬首されたとのことです。三人の女性は、死ぬ前に歌をうたわせてくれと頼み、「海行かば」を合唱しながら友軍の手で生命を断たれたとあります。(沖縄タイムス杜、前掲書)
恩納河原で住民の「集団自決」があった時、十六歳の二人の少年が傷を負ったまま死にきれずに米軍に収容されました。小嶺武則(こみねたけのり)さんと金城幸二郎さんの二人です。その後、二人は米軍の指示で、西山に避難している一般住民に下山をすすめるため、赤松戦隊が立てこもる山の陣地へ使いに出されました。すると二人はすぐに同地の戦隊員に捕えられ、「自決の場所から逃げだし、米軍に意を通じた」という理由で銃殺されました。
こうした悲惨きわまる事件のほか、七人の防衛隊員が軍の命令に違反したとして斬殺されたほか、渡嘉敷小学校の大城徳安*1訓導は、「防衛隊員のくせに、家族のところに帰ってばかりいる」という理由で、彼もまた赤松戦隊員に斬首されたと言われています。
壕内に引きこもって出てこない赤松戦隊の隊員に対し、米軍は執拗に降伏を勧告しました。不運にも防衛隊員の新垣重吉(あらがきじゅうきち)と古波蔵利雄( こはぐらとしお)、与那嶺徳(よなみねとく)、大城牛(おおしろうし)の四人が降伏を勧告する使者に選ばれました。一行はそれがいかに危険な仕事であるかを熟知していたのですが、これ以上の無益な殺傷を防ぐため、あえてその困難な任務を引き受けたのでした。軍隊の経験のある新垣と古波蔵は、降伏勧告文を赤松戦隊へじかに届けずに木の枝に結ぴびつけて帰りました。しかし、何も知らずに陣地に向かった他の二人は赤松戦隊員に捕えられ、なんら弁明の余地も与えられないまま殺害されたとのことです。そして、四五年も八月中旬になり、壕内に潜み続けていた赤松大尉は、部下と共に降伏しました。
同書P68〜70に載ってる赤松元戦隊長の反論はこちらに引用してあります。
参考までに。
*1:訓導=旧制小学校の正規の教員の称。現在は教諭のこと。