アジアの民族解放の旗手より一等国を選んだ日本(2)
列強日本への失望
ファン・ボイ・チャウ
フランスの植民地であったベトナム(仏領インドシナ)の民族解放運動の指導者wikipedia:ファン・ボイ・チャウ(1867〜1940)は日露戦争の報に勇気づけられ、密かに出国し1905年4月下旬、日本に訪れた。そして抗仏闘争のために日本から武器の援助を得るために、犬養毅や大隈重信らと面会する。しかし大隈らは、軍事援助が日本とフランスの間の外交問題になるなどとして断り、まずは人材育成に力を入れるよう諭す。そこでチャウは闘争の基礎を築くためにベトナムの青年を日本に留学させる「東遊運動(ドンズー運動)」を行った。政治や軍事を学んだ留学生は約200人に及んだ。留学生だけでなく、日本に亡命したベトナム人もかなりの数に上った。
しかし、チャウの指導した東遊運動はその後、挫折することになる。日露戦争後の1907年6月10日にパリにおいて日本、フランス両国間で「wikipedia:日仏協約」が締結されたことによって、日本はフランスのインドシナ半島支配を容認し、ベトナム人留学生による日本を拠点とした独立運動を取り締まることを約束したのだった。
留学生のチャン・ドンフー(陳東風)はフランスに手をかす日本政府に抗議して、東京小石川の東峯神社で首をくくって自殺した。(小松清「ベトナム」)「近代日本と朝鮮 中塚明」p120より
1909年3月、チャウも日本に見切りを付けて離れることになる。小村寿太郎(こむら じゅうたろう)外相宛にしたためた3000語の毛筆による漢字書簡が残っている。
日本政府は「公理」を以って「強権」と争わず、逆に「強権」におもねって「公理」を圧殺した。「公理」保つとは「愛国の義人」「日本と同州共種の親人」を擁護することであり、他方「強権」におもねるとは、フランス当局の要求に屈することである。
「文明国国民の代表」であり「亜州人」「黄種人」である外務大臣閣下は、「亜州黄種人に対しては、これを卑賤軽侮し、罪の有無を問わず皆勝手に駆逐」する一方で、「欧米人に対しては、これに卑下奉承し、是非を問わずにひたすら承順」している。「白種を尊び黄種を卑しみ」「西人を貴び東人を賤しんでいる」。貴大臣閣下の「人権」のために悲しむ所以(ゆえん)である。
仲間だと思っていた日本が、東アジアの権益を互いに補償しあうために欧州列強と手を結んだ……彼の失望と怒りが見える。「検証 日露戦争 読売新聞取材班」p136より
当時、日本には、清からの留学生もいた。清国は、日清戦争直後の1896年に留学生の派遣を始め、1905年にはその数は約1万人に達した。
清末の留学生事情に詳しい李喜所(リー・シースオ)・南開大学教授は「日清戦争でなぜ日本に負けたのか。その理由を知ろうと日本への留学や視察が始まった」という。欧米で近代の思想や制度を一から学ぶのではなく、日本の経験に学べば効率的だとも考えられた。欧米より近く、費用が安くてすむという現実的な理由もある。1905年に科挙制度が廃止され、日本が新しい勉強の場と考えられたことも大きいと解説する。
そんななか、留学生にとって衝撃的なことがおきる。日本政府は1905年11月、「清国留学生取締規則」を公布した。革命運動への傾斜を清朝政府が恐れ、日本政府に取り締まりを依頼したのだ。留学生たちはこの措置に対し、授業のボイコットなどで反発する姿勢を示した。当時の朝日新聞はこれを「清国人の放縦卑劣」と批判し、それを読んだ留学生で革命派の活動家だった陳天華(チェン・ティエンホワ)は、抗議のため東京の海に入り自殺した。「asahi.com:朝日新聞 歴史は生きている」より
チェン・ティエンホワ
チェン・ティエンホワ(陳天華)は東京大森海岸で入水自殺している。その遺書には
「日本に親しむべしとする人に対しては、朝鮮を御覧ねがうとしよう、……今日の情勢でただちに日本と同盟しようとするのは朝鮮になろうとするにひとしい」と書かれていた。(「陳天華絶命書」島田虔次「中国革命の先駆者」)「近代日本と朝鮮 中塚明」p120より
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