アジアの民族解放の旗手より一等国を選んだ日本

「検証 日露戦争 読売新聞取材班 中央公論新社」より

p85
日本近現代史についての著書も多い外交評論家の岡崎久彦氏は語る。
「1000年位でみれば、日露戦争は白人勢力東漸のおわりを意味する戦争だった。その影響は中国やインド、ベトナムなどに及んでいるし、さらにいえば第二次世界大戦後の民族独立運動にもつながっている。そうした意味で、日露戦争は世界的な意義があったといえます。」

千年というのがまた「日本人の偉大さ」を誇り過ぎていて失笑ものなんですが、自称保守派に多くみられるこういったストーリーには一定の留保が必要だと指摘するのはアジア主義に詳しい評論家の松本健一氏で「開戦時、少なくとも日本では“白人対有色人種の戦い”といった意味は一般的ではなかった。」という。

p86
国民の間に民族意識が高まっていたのは事実であろう。だがそれはあくまで西洋が設けた土俵の上でどうやって生き残っていくかがテーマだった。その土俵自体をひっくり返そうといった発想があったわけではない。実際、日露戦争がどのような経緯をたどったか考えてみればいい。日英同盟を頼みの綱とし、終戦処理には米国の力を借りることになる日本にとって、日露戦争が「白人との対決」になるわけはなかった。

p87
人種間の対決といった図式が、日本人に意識されるようになるのは日露戦争後のことである。実際には戦争後、まずアメリカなどで「日本おそるべし」との声が上がり、黄色人種を警戒する黄禍論が広まっていく。日本側で「白人なにするものぞ」といった考えが方が意識されたのは、あくまでこうした日本警戒論に対抗するため。「日本は白人支配打破のため戦った」というのはしょせん後付けの論理に過ぎないのではないか。

確かに、のちの太平洋戦争に際して日本が戦争目的としての「アジア解放」を唱えた事実はある。1943年11月、東条英機首相のほか、南京政府行政院長・汪兆銘満州国国務総理大臣・張景恵、フィリピン大統領・ホセ・ラウレルらが出席して東京で開かれたwikipedia:大東亜会議は「大東亜共同宣言」を採択して閉会した。

大東亜共同宣言 前文

大東亜各国は相提携して大東亜戦争を完遂し大東亜を英米の桎梏より解放して其の自存自衛を全うし左の綱領に基づき大東亜に建設し以て世界平和の確立に寄与せんことを期す

p88
「だが」と、松本氏はここで疑問を呈する。「この宣言が1941年の開戦から2年もたってから出されたことの意味を考えなければならない。アジア解放をまじめに考えていたのなら、開戦の時点でこのような宣言を出さなければおかしい。こうした事実からも、日本政府が本気でアジア解放を考えてこなかったことは明らかでしょう。」


この「検証 日露戦争」では日本の勝利に影響を受け心を高ぶらせた人物として孫文ネルーなどをあげ、有名な「大アジア主義の講演」も最後の部分が紹介されています。ただ、孫文が講演の数日前に頭山満犬養毅不平等条約である「対支二十一ヵ条」の撤廃を頼みに行ってることや、ネルーが書いた書籍には「(日本は)植民地にされていた民族に独立への希望を与えた」の後に「ところが、その直後の成果は少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけくわえたにすぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは朝鮮であった。」と書かれていること(参照:[これはひどい]都合の悪い事実を隠す扶桑社の教科書 - Transnational History)などは紹介されていません。

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読売新聞取材班

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