アジアの民族解放の旗手より一等国を選んだ日本(3)

日露戦争では表面上は朝鮮(当時、韓国)の独立を掲げて戦われたが、実際には日本とロシアが第三国を主戦場に朝鮮半島満州の支配権を巡って戦ったものであった。

日露戦争と朝鮮「保護国」化への段取り。保護国の解説は最後に記しました。)

1904/02/10(明治37)日露戦争が始まる
   02/23  日韓議定書 調印
   05/31  閣議、根本的対韓方針を決定
   08/22  日韓協約 調印
1905/04/08  閣議、韓国保護権確立を決定
   07/29  wikipedia:桂・タフト協定
   08/12  第二次wikipedia:日英同盟協約 調印
   09/05  日露講和条約ポーツマス条約)調印


   10/27  韓国に保護権設定の方針を閣議決定
   11/17  第二次日韓協約(韓国保護条約)調印
1907/07/12  韓国内政の全権掌握に関する日韓協約の件を裁可
   07/24  第三次日韓協約 調印
1909/07/06  閣議韓国併合の方針を決定
1910/08/22  韓国併合条約 調印


決定された閣議や条約の詳しい内容はこちら → クリック 20世紀


この経緯で重要なことは、日本政府が欧米列強国であるアメリカ、イギリスのアジアでの植民地支配を承認し、それと引き換えに日本の朝鮮半島支配(保護国化)をアメリカ、イギリスが承認していることである。


アメリカとは、1905年7月29日、フィリピン視察の途中に来日したアメリカの陸軍長官ウィリアム・タフト桂太郎首相兼外相の会談(桂・タフト協定)で、桂がアメリカのフィリピン統治を支持し、タフトは日本が韓国で「決定的な手段」をとることを支持し、保護の樹立にまで言及する覚書に合意している。


イギリスとは、1905年8月12日の第二次日英同盟協約によって、日本がインドにおけるイギリスの「特殊権益」とイギリスがインドでとる「借置」を認めるかわりに、イギリスは日本の韓国における「卓絶なる利益」と日本がとる「指導、監理、及び保護の借置」を認めているのである。参考「日本の戦争はなんだったか 吉岡吉典」p140〜141


これだけでも日露戦争が(自称)保守派に多くみられるストーリー「白人勢力との対決」になりえるわけがないのである。


日本には1905年9月5日の日露講和条約によってロシアが南満州に有していた遼東半島の租借権、長春以南の南満州鉄道およびそれに付属する諸権益が譲渡されることになる。陸大中将が都督となり、治安維持には関東軍があたった。以降、日本は南満州地域への利権扶植につとめることになる。


朝鮮については、アメリカ、イギリスの承認のもと1905年11月17日に朝鮮を保護国化する。そして1910年8月22日には韓国併合条約を結んで朝鮮を併合し、総督府を設置して、以降、植民地支配をおしすすめることになる。


改めていうが、日本は「アジア諸民族の解放者」としてたちふるまったのでは決してなかった。日本が幕末以来めざしてきた文明国の仲間入りというのは、帝国主義化の道筋を意味していた。帝国主義とは、近代の民族国家が領土や勢力範囲の拡大をねらって他民族やその国家を侵略し抑圧してゆくベクトルのものだった。日本は帝国主義国として一等国になる道を選んだ。そして第一次世界大戦のあとには「五大国」の1つに数えられることになるのである。参考「日本の失敗 松本健一


たしかに欧米列強の植民地支配のもとにおかれていた民族の中には、日露戦争での日本の勝利に独立への夢や希望をいだいた人達もいた。それは事実である。だがそれは幻想だった。特に朝鮮半島や中国など日本に近ければ近いほど、その夢や希望が醒めるスピードは速かった。


少し後になるが(大正4)1915年11月に日本の外務省は、亡命していたインドの独立運動家、wikipedia:R・B・ボースとH・L・グプタに「5日以内の国外退去命令」を下している。イギリス大使館にボーズとグプタの引き渡しを要求された日本政府はここでも同盟関係を重視したのだった。この窮地を救ったのが民間の頭山満を中心とする玄洋社黒龍会のメンバーであった。彼らは頭山満邸の裏口からボースとグプタを逃亡させ中村屋にかくまうことになる。参考「頭山満と近代日本 中島岳志」p18


保護国とは何か?

 歴史学のうえでいう保護国は、ある国による他国の政治的保護関係を示す用語として広く使用されている。そのため、宗属関係にある宗主国と藩属国との関係についても用いられる場合もある。(中略)一般に近代帝国主義の保護支配とは伝統的な宗属関係の否定のうえに成立する。ベトナムに対する清国の宗主権を清仏戦争によりフランスが排除し、保護国としたように、あるいはイギリスがオスマン帝国の宗主権を否定してエジプトを保護国としたように。(中略)

 外交用語としての保護関係は、第三国から独立を脅かされる状態にある国家の独立を保障するため、ある特定の国が保障を与える関係である。これに対して国際法上の用語としての保護関係は、保護を与える国が被保護国の外交権の一部あるいは全部を奪い、外交機能を代行する関係である。外交権は、国家が国際法上の権利能力、法的人格を有することを示す最大の主権であるから、外交権を失えば、その他の主権を保持していようとも、その国家は国際法上の主体ではなくなる。宗属関係のもとでの藩属国は独立国であるが、近代的保護関係のもとでの隷属国家は独立国とはいえないのはそのような意味である。

 保護国化とは一方で独立を保障しながら、他方で外国権を侵害し独立を否定するという本来的な矛盾をかかえもっていた。韓国併合 海野福寿」p126

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