福島第一原発の20km圏周辺に行って、初めて感じ取れたこと
原発事故から8ヶ月が過ぎたわけですが、先週の9日に立ち入り禁止(警戒区域)となっている原発から半径20km圏ぎりぎりのところまで行ってきましたのでエントリを書いてみます。
千葉から出発して高速・常磐道で北上できるのは広野の出口までで、降りるとすぐに福島第一原発で働く作業員たちの拠点となっているJビレッジがあります。
建物には防護服を着た作業員の姿が
仮設住宅
施設やサッカーコートは原発で作業する人たちの住居や駐車場となっていました。そして、Jビレッジに隣接する火力発電所の脇から車で海の方へ降りて行くと、そこには地震と津波によって崩壊した堤防や民家が残されていた。
このあたりは通行許可書がなくても行ける南側ぎりぎりの地点となっていました。ここからは立ち入り禁止区域を迂回しながら北上できる道を地元の人に聞いて、国道399号線で行けるというので走ってきましたが、いや、すごい峠道なのよこれが。
すれ違った車もほとんどなく、そのうち3台は警戒中の警察車両でした。東京から応援で来ているとかで、途中、防護服を着たままの警察車両が走っていたことを尋ねると、この日は立ち入り禁止区域で行方不明者の一斉捜索があったといっていた。
この399号線は、5月に放送された『ETV特集 ネットワ―クで作る放射能汚染地図』のなかで、科学者の木村真三さんが放射能を測定するために走っていた道だったのですが、山の谷間には小川が流れ、田畑があり、裾野には数件の集落があるといった日本の原風景がそこには広がっていました。
浪江町や飯舘村も通ってきました。最初は景色と紅葉の美しさに無邪気に感動していたのですが、次第に人が一人もいないというその非日常的な状況に恐ろしさを感じるようになっていった。飯舘村のあたりなんて、民家はほとんど被害を受けていないように見えるのに、道路にも学校にも役場にも人影がまったくないのだ。
その後、飯舘村役場を過ぎ12号線に入り、こんどは北側の20km圏ぎりぎりの南相馬市へと向かった。
南相馬市の市街地はけっこう大きなお店もあり営業も再開され日常生活を取り戻しているように見えたが、小学校の前には仮設住宅が立ち並び被災者の姿もあった。
市街地を抜け海岸の方へ向かうと、そこでは瓦礫や土砂を積んだダンプが頻繁に行き来していた。
南相馬
合掌
崩れた鉄塔
東北電力・原町・火力発電所
北泉海浜公園
この後、相馬市に向かうわけだが、5時近くになり暗くなってきたので帰ろうということになった。そのまま下れないのでいったん内陸の福島市に出て東北自動車道経由で常磐道に戻るという、この南北40kmが通行止めという状況はとても不便なのだと身に染みてわかったのでした。
今回、南相馬市や相馬市では、そこに人々の生活があり、復興ヘと向かう「力」のようなものを感じることができた。しかし、飯舘村ではそこに人々の生活が無く、時間が止まったまま取り残されているように感じた。
それにしても、原発周辺のあれだけ広い範囲を除染なんてできるのだろうか?仮にやってみたとして例えば畑を以前のような豊かな土に戻すのにその何年かかるんだろうか?それとも廃墟となってしまうのだろうか?
など、いままで自分がひとつひとつ具体的に考えイメージすることができなかったことを、行ってみたことで直接、感じ考えることが出来たのは収穫だったと思う。
逆にいえば、自分も都会に住む“普通”の人々と同じように「もう過去のことだし」とか「自分のところじゃないし」とか、次第次第に忘却したかもしれないということでもある。
原発事故に限らないことですが、こうした国が始めた国策によってもたらされた悲劇や犠牲を忘れていき、忘れることで考えなくなり、責任も曖昧なままにされて、誰も考えないがゆえにその場に押し流されてなんとなく原発も再稼働されて・・・そんな愚かなことを繰り返さないようにしたいものだ。
最後に、これを書きながら朝日新聞に掲載された、浪江町から避難している菅野みずえさんの言葉を思い出したので転載してみたいと思います。
東電と国に、言いたいことがある。
「だれもいない道を走ってごらんって。そうすれば、自分のしでかしたことの大きさを感じられるからって」