台湾出兵の新聞錦絵や「国民」意識の形成など。


台湾先住民の少女「オタイ*1」「東京日日新聞」錦絵版。
台湾出兵で「保護」され、教育のため日本へ。美談として称えられたが、「おたえ」と名付けられた少女は心を開かず、台湾に帰された。



『石門口勝戦之図』1874年10月「東京日日新聞」錦絵版。*2
台湾の石門付近の戦闘で討ち取った住民の首を銃剣などにつるす日本兵


1874年(明治7年)の近代最初の海外出兵となったwikipedia:台湾出兵の様子は、当時まだ新しいメディアであった新聞各社が、

 戦闘の様子や現地の風俗を、想像を交えた絵入りで報道した。
「野蛮の風俗、裸体……穴居(けつきょ)」の「土人」は「人を殺し喰う」など「獣類同然の人種」だが、「恩愛」によって撫育(ぶいく)すれば「他日、本邦の干城(守り)とも成るべし」(『新聞雑誌』)といった文言が紙面にあふれた。

 『東京日日新聞』は、主筆wikipedia:岸田吟香(きしだ ぎんこう)のほかに写真師まで派遣し、これからはわが日本人民に、台湾の「実景」を寝たまま見てもらえる、そうすれば、「この如き蕃野(ばんや)の地に生活する人民と、我等の如き開花文明の国に住居して自由を得る者とを比較せば、その幸不幸」はすぐにわかるだろうと、優越感をあおった。
(『文明国をめざして (全集 日本の歴史 第13巻)』牧原憲夫 p224)

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こうして自分達を「進んだ文明人」の側に置き、相手を「遅れた野蛮人」と位置づけたのだが、台湾出兵では日本兵も「生蕃」の首を持ち帰っている。『大衆紙の源流 - 明治期小新聞の研究』などの著書がある歴史社会学、メディア史専攻の研究者・土屋礼子氏は、

 それだけに、「いっそう、日本兵は開花した文明国の兵隊として勇ましく立派に、メディアの中に描かなければならなかった」と指摘している。
(『文明国をめざして (全集 日本の歴史 第13巻)』牧原憲夫 p227)

首狩りついては、陸軍中将として台湾出兵を指揮したwikipedia:西郷従道の1874年(明治7年)6月7日付、大隅・蕃地事務長官あて「台湾生蕃討撫之状況報告」にも、

石門に進む生蕃任七十余人崖門に拠(よ)り能(よ)く防ぐ我兵奮闘して之を破り首級を取る十二

と、12の首を討ち取ったことが記されている。(『日本外交文書』第7巻 p107)


この後、1894年の日清戦争、そして1895年の下関条約によって日本は台湾を割譲することになるわけだけれど、清国との戦争を経験することによって、日本人の中に、アジアにおける唯一の先進国が、遅れた周辺国を指導する責務があるという意識が芽生えていく。そこには、遅れた非文明国の人々が先進国日本による支配を拒否することなく喜んで受け入れるはずだ、という単純で一方的な思い込みもうかがえる。

ネット上にはいまだにこうした19世紀の発想のまま、台湾や朝鮮などの植民地を近代化させたことをもって正当化しようとする人が多いのだけれど、そんなことは植民地支配を行なったどの国でもやっていることであって、こういった人達が目をふさいで見ようとしない重要なことは、植民地支配による近代化とは、本国(内地)の繁栄のための開発であって、逆ではないということである。

そのことは、例えばid:ni0615さんが以下の一連のエントリで紹介している、1910年(明治43年)の『台湾日日新報』に、

「論説 生蕃の前途」1
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/1123894/
「論説 生蕃の前途」2
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/1127605/
「論説 生蕃の前途」3
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/1127941/

「劣等種族である生蕃をどのように化育すれば」「労働の種族あるいは力役の種族として生産界に利用」することができるか、といった論説が掲載されていることからも見えてくる。このような、日本人の指導者としての「国民」意識の形成や共有に、当時の新聞が大きな役割を果たしたことは多くの研究者が指摘している。


台湾出兵牡丹社事件、征台の役とも呼ばれる。)の概要については、wikipedia:日清戦争台湾出兵の欄に短くまとまった文章があったので参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89

 1871年琉球島民殺害事件にたいして薩摩藩出身者を中心に台湾出兵が建言され、征韓論派の下野の後政府は内務卿大久保利通の主導のもと1874年台湾蕃地事務長官に大隈重信、同都督に陸軍中将西郷従道を任命して出兵準備をさせた。兵力は二個大隊であり、うち鎮台兵は一個大隊で残りは「植民兵」として薩摩など九州各地の士族で占領地永住を前提に募集・編成されたものであった。しかしイギリスやアメリカの反対意見と局外中立の表明および征韓論にも反対していた参議木戸孝允の反対と辞任により政府は派遣中止を決めるが、西郷が5月2日征討軍を長崎から出航させると大久保もこれを追認し、7月1日には日本軍が台湾南部の事件発生地域を占領することとなった。日本軍は先住民の村を焼き払うなどし、日本側の戦死者は12名であったが、年末までの駐屯でマラリア等による病死者が500 名を超える事態となった。

 これは近代日本初の海外出兵であったが、清側は直ちに抗議し撤兵を強く求めた。明治政府は交渉決裂の場合の清との開戦も決し、9月「和戦を決する権」を与えられた大久保が全権大使として北京で交渉し、難航の末イギリスの仲介もあり清は日本の出兵を「義挙」と認め50万両(テール)の賠償をすることで決着した。

 これは琉球の帰属問題で日本に有利に働き、明治政府は翌1875年琉球にたいし清との冊封朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。また清は以後日本の清国領土簒奪への警戒感を持ち北洋艦隊建設の契機ともなった。

関連リンク

台湾出兵の際の新聞錦絵はこちらのサイトで別の1枚を確認できる。
http://www.lib.isics.u-tokyo.ac.jp/~lib/ono/wgshinbun3.html

*1:「オタイ」とは台湾娘の意。

*2:画像は『朝日百科 日本の歴史 第9巻 近世から近代へ』p310より。