国立歴史民俗博物館に行ってきた

このパンフに誘われて


日本にはこれまで、満州事変から敗戦に至るまでのいわゆる「十五年戦争」と呼ばれる戦争を通史として展示している国立の博物館はなかったそうです。そんななか国立歴史民俗博物館(愛称は歴博)では1983年の開館以来30年近くが経ってようやく第6展示室「現代」が3月16日にオープンしたのでした。なぜこんなに遅れたのか。それは日本の政治が近隣諸国との歴史問題で揺れてきたことと無縁ではなかったようです。(追記:そんな理由からでしょうけど、近現代の戦争に関する展示の仕方としては、資料は提示しますが判断はおまかせしますといった感じの印象を受けました。)

ホームページ:大学共同利用機関法人 人間文化研究機構|大学共同利用機関法人 人間文化研究機構|国立歴史民俗博物館
場所:千葉県佐倉市城内町117


唯一の国立の歴史博物館である国立歴史民俗博物館佐倉城址公園のなかにあります。この公園は江戸時代には佐倉城のあった跡地で、明治からは佐倉連隊の駐屯地にもなっていました。そこで戦争遺跡もいくつか写真に収めてきたのでいっしょに紹介していきます。


展示のご案内|国立歴史民俗博物館

第1展示室 原始・古代
第2展示室 中世
第3展示室 近世 
第4展示室:民俗
第5展示室:近代 19 世紀後半から1920年代まで
第6展示室:現代 1930年代から1970年代 ←new!


(写真はすべてクリックで大きくなります。)



まず外観はこんな感じ



中庭となります。


館内はとにかく広くぜんぶ紹介するのは無理なので、第1、第2展示室はザックリとすっ飛ばして、第3展示室の「近世」以降から紹介することにします。


第3展示室「近世」



江戸の町並みをミニチュアで再現したジオラマ模型



どの展示室にも、こうした復元模型や実物大の人形がけっこう展示してあったりします。


第4展示室「民俗」



こうした各地の信仰や祭りごとを紹介する展示スペースがいくつもあります。


第5展示室「近代」
年代はわかるものだけ書いています。



「蒸気船人物退帆図絵」



「長州下ノ関ヘ」 年代:慶応3年(1867年)

元治元年(1864年)の4国(英・米・仏・欄)連合艦隊の下関攻撃を描いたもの。長州藩優勢の戦況など誤りがあるが、当時の対「異」観を生々しく伝えています。



大正時代に創刊された婦人雑誌。



大正時代の浅草の町並みも復元されています。



全国水平社の荊冠旗wikipedia:荊冠旗



関東大震災を伝える展示のなかに「関東大震災絵巻」がありました。
絵巻の右の方には「朝鮮人来襲の報告」をする巡査と青年団長の姿が、中央には鉢巻をして箱から日本刀を取り出す青年の姿が、左の方には井戸に「不逞朝鮮人が毒を投入するというので」「厳重に蓋をして一時間交代で立ち番をする」当時の自警団の姿が描かれています。



産児制限にはサンガーを!!」 年代:明治時代〜昭和1年(1926年)
避妊具「サンガー」ポスター

1922年に来日もしているアメリカの産児制限活動家マーガレット・サンガーから名前をとったのでしょうか。この後の日中戦争を境に戦争は拡大し、それにともない政府は人口増加政策(スローガンは「産めよ増やせよ」など)を打ち出し、産児調節運動は弾圧の対象となっていき母親は兵士の供給源とされていくことになります。


第6展示室「現代」
国民総動員の実態が視覚の面からうかがえるポスターなど。


「厨芥を生かせ! お台所の廃物から生まれる一億円」
大政翼賛会 全日本厨芥利用協会 ポスター
(厨芥(ちゅうかい)とは台所から出る野菜のくずや食べ物の残りなどのくずのこと。)


「撃ちてし止まむ 貯蓄報國運動 戦ふ皇國に捧ぐる貯蓄」
 主催東本願寺 後援大蔵省・逓信省 ポスター


「節米 一粒もやがて興亜の大資源」
愛国婦人会岐阜県支部 (小ビラ?シール?)


「現代」のコーナーには、この他にも戦後の占領時期や高度経済成長時期の展示がされていて、ゴジラなんかも展示してあります。(追記:それと個人的には、沖縄戦、原爆投下に関する展示があっさりし過ぎているように感じたかなぁ。)

なお、3月16日(水)〜2011年4月3日(日)までは、企画展示として「http://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/special_06.html」も開催されています。


さて、ここからは外に出て佐倉城址公園内にある戦争遺跡などを探索してみました。



姥が池



訓練用の12階段

千葉県の地元には処刑台として使用されていたとの都市伝説があり心霊スポットとして有名だったりしますが、実際には上の写真のように、兵士が高所からの飛び下り訓練に使用したコンクリート製の階段です。木製の飛び下り台と違い壊すのが大変なため戦後も残ったようです。


傷病兵の治療のための佐倉陸軍病院跡地
昭和40年代まではテラスを配した洋風病棟が残っていたそうです。



兵営の便所跡

土台のみが残っています。



公園入口の坂を少し登った右手には、臼杵磨崖仏のなかで最も有名な大日如来像のレプリカもあったりします。
なぜここにあるのかは、よくわかりません(^^