慰安所とは「銃と剣が作り上げたものである。」

『きけわだつみのこえ』(1949年)の続編として、その十数年後に出版された『第二集 きけわだつみのこえ*1』には、日本軍「慰安所」について書かれた箇所が2ヶ所あり、当時の視点や認識の一端が伺える。

第二集 きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫)第二集 きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫)
日本戦没学生記念会

岩波書店 2003-12-16
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■西村秀八(にしむらひではち)。昭和14年東京大学に入学。昭和16年8月、陸軍に応召入隊。初年兵として中国南部である南支(場所は不明)へ。その後ニューギニア戦線を経て昭和二十年六月、フィリピン・ルソン島で戦病死。28歳。最終階級は伍長。


同書p166

西村秀八
昭和十七年五月十九日着信 南支から

 “何だって、嬶(かかあ)を持てば戦地でP屋(慰安所)へ行かないで済むだろうって!とんでもねえ話だ。そんならおめえ、家で米を食ってるからと言い戦地へ来れば米を食わないでいられるかい。外米だって米と名がつきゃあ喜んで食うじゃあないか……ともかくこの途(みち)はおめえたちチョンガーにはわからねえよ”
 P屋とはプロスティテューション(売春行為)の略語だろう。兵隊の通用語である。小生思うらく、“そもまた文化の生める非生産的な商売である”と。しかしてその文化とは銃と剣が作り上げたものである。チョンガーとは語源不明、独身者の謂(いい)である。


慰安婦を「商売」「売春」という公娼制度下での売春行為と同じように見ているが、慰安婦は、娼妓(公娼制度下での売春)とは違い、廃業の自由や通信・面接の自由さえ保障されていなかった。お金にしても受け取っていない人がけっこういる*2
それでも、日本の軍隊が中国に軍事侵攻し武力でもって占領した地域に軍専用の慰安所を設置していったという、この性を売買する軍「慰安所」制度(ここでは文化と呼ばれているが)を「銃と剣が作り上げたものである」とする鋭い洞察は本質を突いているのではないだろうか。
P屋の語源が売春(Prostitution)というのは初めて聞いた。他にも説があるが、どうもこの説は違うような気がする。12/9追記:この説の正誤を判断するだけの情報を持っていませんので、詳しいことが分からないうちは保留としておきます。)



■松永竜樹(まつながたつき)。昭和16年国学院大学卒業。昭和17年2月に陸軍に応召入隊。そして初年兵として北支へ。昭和19年5月、中支河南省にて戦死。27歳。最終階級は中尉。


同書p181

松永竜樹
従軍手記 第一部
一九四三年二月一日初稿 於保定(河北省)
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4 内務

(前略)北支軍現地中隊の現況を言おう。駐屯地においては毎日毎日酒と懐郷とののらくらした生活。幹部はP屋と麻雀に夜を更かす。下士官下士官で、兵は兵で、それぞれ眼前瞬間の享楽だけを求め空しい除隊の日数を数えている。
 明日の生命への危惧が彼らをこのようにするのであるか? 見かねるばかりの軍紀の頽廃! 軍の首脳部は戦陣訓の普及と懲罰令の動員のみによってこれを防ぎうると思っているのか? ……無意味な時間つぶしの反復。おぼつかない帰還の噂の繰返し、それだけが彼らのプライベートライフなのだ。空しい青春!


最初に所属した「中隊は鉄道付近の警備に任じ」(p177)ている。河北省のようだが本書だけでは詳しい場所まではわからない。そうして一年ほど経った頃に命令によって「むりやり幹部候補生に採用され」(p189)たという。この従軍手記は河北省の「保定」という場所で幹部候補生教育を受けいていた時期に書かれたもののようである。


参考文献

従軍慰安婦 (岩波新書)従軍慰安婦 (岩波新書)
吉見 義明

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*1:ここで引用した『第二集 きけ わだつみのこえ岩波書店は、はじめ『戦没学生の遺書に見る 15年戦争』1963年という表題によってカッパ・ブックスより発行されたものを後に改題したもので、第1刷1988年11月発行のもの。

*2:慰安婦」のなかにはお金(軍票)を貯金していた人もいたそうだが、敗戦前後には超インフレでほとんど無価値となった。さらに植民地出身者は戦後、引き出すことが出来なかった。(参考:吉見義明『従軍慰安婦』p148)