韓国野球発展の礎を築いた「在日コリアン」の存在
(このエントリは後から2箇所、訂正を行いました。)
先月、BShiで放送された番組『白球 選手たちは海を渡った』。
やっと録画しといたものを全部見ることができた。(すぐ書く予定が伸び伸びになっていました(^^;
この番組は1940年代から1960年代にボールを追いかけた在日コリアンの野球選手にかなり焦点があてられており、植民地支配や朝鮮戦争による南北分断といった政治状況に翻弄されながらも「野球に生きた」在日コリアン1世2世を中心にインタビューを行っている。
日本で野球を学んだ彼らは韓国野球の歴史をつくっていくわけだが、在日コリアンといっても年代や世代によって、じつに多様であるので一括りにして語ることにならないよう、以下なるべく番組内の証言に依拠したかたちで、その多様な在日コリアンを紹介していきます。
1942年、京都生まれ。日本人のなかで育った在日コリアン2世。
韓国野球界では「野神(やしん)」(野球の神という意味)と呼ばれている。
キム・ソングンは17歳で海を渡り初めて韓国へ行った。
その後、日本で社会人野球を目指すも国籍の壁があり不採用となる。
22歳のときに家族と離れて永住帰国を決意した。
再入国許可をもらえなく、永住帰国か、行かないか、二つに一つを迫られたのだ。
日韓の国交が回復する1965年以前のことだった。
家族は反対した。野球をとるか、家族をとるか。
68歳になるキム・ソングンは言う。
「二度と家族とあえないと思いっていた。」「飛行機のなかで一生ぶん泣いた。」
「野球とは人生そのもの。それがすべてだ。」
「『在日』というのは、日本にいても外国人、韓国にいても外国人。」
「(韓国で)パンチョッパリとか新聞に書かれたし、ビンが飛んできたこともある。」
「韓国の世論とか韓国の人に負けたくなかった。」
「韓国はわたしを強くしてくれた。」
1923年、朝鮮生まれ。7歳のとき家族とともに海を渡り日本へ。
のちに韓国野球の礎を築く。
家は早稲田大学に近く、「春と秋、『早慶戦』の季節がくると近所一体が揺れるほど大騒ぎがおきる。わたしが生まれて初めて野球を見たのはこときだった。」(当時の『韓国日報』に掲載された「キム・ヨンジョ手記」より)
キム・ヨンジョは帝京商業に入り、甲子園を目指して毎日、グラウンドでボールを追いかけた。
そして、東京大会で優勝をはたす・・・しかし、甲子園へは行けなかった。
戦争のため中止になったからだ。
1943年、キム・ヨンジョは子供の頃から憧れた早稲田の角帽をかぶり早稲田大学へ進学する。
そして野球部のユニフォームを着て、20歳で「出陣学徒壮行早慶戦」に出場する。
戦争のために「最後の早慶戦」だった。
日本が敗戦すると、キム・ヨンジョは混乱のなか朝鮮へ戻る。
韓国では野球がやりたくてもできなくて日本行きを願ったが、家族を残しては行けなかった。
決心してこう言ったという。
「いつか日本と対戦する日がきっとくる。その日のために韓国で野球をやろう。」
さらに、娘の金洋洙(キム・ヤンス)は言う、
「(父は)早稲田に対する愛情がすごく強かったんです。誇り・自尊心・・・『早稲田人』としての・・・」
1940年、広島生まれ。被爆者でもある在日コリアン2世。
名門浪商の4番打者で、春の甲子園の出場も決めた。
そんなとき、ある暴力事件が起きた。3年生が下級生へ制裁したというものだった。
張本はやっていないにもかかわらず朝鮮人ということで一人、罪を着せられ休部扱いのようにされてしまう。
1982年の韓国プロ野球誕生を目指し韓国野球委員会のコミッショナー特別補佐として奔走している。
南海ホークスを退団して韓国の実業団でプレーしたピッチャー。
日本の球場では「朝鮮人」と野次られ、韓国の球場では「パンチョッパリ」と野次られたという。
「両方からやられて立つ瀬がなかったですよ」と当時を振り返る。
白 仁天(ペク・インチョン)
韓国人として初めて日本のプロ野球に飛び込んだ。韓国プロ野球界の重鎮。
1961年、韓国では朴正煕(パク・チョンヒ)が5・16軍事クーデターによって政権を奪取していた。
日本行きがきまったときに韓国国内では、
「金で売られていく『売国人』と、いろんな人からいわれて、手紙などもたくさんきた。」という。
しかし朴正煕政権下では、ちょうど国交回復や韓国の経済的な発展が模索、優先されていた時期であり「タイミングがよかった」という。
1962年、東映フライヤーズに入団。首位打者にも輝いた。
日本で生まれ育った在日コリアン。
愛媛県代表で夏の甲子園大会へ出場したこともある。
1963年、韓国で初めておこなわれた第五回「アジア野球選手権大会」。
このとき韓国は3-0で、初めて日本に勝利している。
その決勝戦で投手として出場した。
このときの韓国代表チームのコーチはあの金永祚(キム・ヨンジョ)であった。
うれしさのあまり泣いていたという。
このほかにも、帝京商業時代にキム・ヨンジョの一年後輩で「フォークボールの神様」と呼ばれた杉下茂や、日本に帰化した新浦壽夫、83年に広島カープから韓国のヘテ・タイガースに入団した木本茂美(キム・ムミ)、同じく83年に阪神タイガースからヘテ・タイガースへ入団した宇田東植(チュ・ドンシク)が紹介されていたり、Nスペ『日本と朝鮮半島』第5回で、日本政府と竹島(独島)問題で秘密交渉にあたったと証言していた朴正煕の右腕で元首相の金鍾泌(キム・ジョンピル)の兄、金鍾珞(キム・ジョンラク)*2なども紹介されていました。
番組で語られなかった部分について
留意しておきたいと思ったところとしては、日本で差別を経験し、韓国でも「パンチョッパリ」といった「不純なもの」として排除された経験が紹介されていましたが、在日コリアンによる戦後の権利獲得運動がある程度成功した現在とは違い、当時はより深刻な「制度上の差別」がまだ存在していたわけですが、そこら辺を番組では触れられていなかったようです。
あと、韓国の軍事政権への批判的視点があまりなくて*3、これは番組が韓国の「野球」をメインテーマに置いているので仕方のない部分もあるのですが、やはり不十分に感じたかなぁと。
(3/7追記:後から画像を加えました。)
*1:金 星根(キム・ソングン)監督はわたくしの郷土の千葉ロッテマリーンズでコーチを務めていたこともあって、現在は門倉投手も在籍するSKワイバーンズの監督。(訂正)門倉投手は1月にサムソンライオンズに移籍していました。)
*2:金鍾珞(キム・ジョンラク)の「解決せざるをもって解決とする」という詭弁でもって日本側も暗黙のうちにそれに乗っかったという秘密交渉の証言をした人物。
*3:(訂正)番組の構成に批判的視点が「あまりなく」と書いたのですが、番組を見直してみると、当時の全斗煥(チョン・ドファン)軍事政権下で、「政府が不満を外へ向けるために野球を利用した」しかし「野球界もそれを望んだ」といった証言や、1980年に起こった光州事件の映像を使いながら、プロ化を目指した人達の心の揺れも伝えていました。 そして韓国プロ野球は1982年に全斗煥大統領の始球式で開幕することになります。 「あまりなく」だと正確ではないと思いましたので打ち消しと補足を行い訂正とさせていただきます。