公文書からみるスマラン事件(白馬事件)、他の解説。

1994年にオランダ政府が公表した『日本占領下蘭領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書 調査報告書』、それに、戦後のオランダによるバタビア裁判(バタビア臨時軍法会議)の公判記録などを基に、スマラン事件といくつか同様の事件を具体的にみていきます。
(以下、(1)(2)(3)(4)は後述の参考文献。文中※は自分のコメントです。)


スマラン事件(白馬事件)
オランダ政府の調査報告書には、1944年2月、インドネシア・ジャワ島のスマラン郊外の3ヶ所の民間人抑留所から選び出された17、8歳から20代のオランダ人女性たちが、抑留所で「強い抗議」が起きたにもかかわらず、4ヶ所の慰安所に「力ずくで連行」され、そこで「少なくとも24名」の女性が性行為を強制されたと記載されている。報告書ではさらに、2人は脱走したが警官に捕まり連れ戻され、1人は自殺未遂、1人は精神病棟に監禁、1人は妊娠中絶の処置を受けたと報告している。(1)


この事件の概要は、オランダによるバタビア裁判の公判記録によれば以下ようなもの。


1944年1月、南方軍の能崎清次少将が、池田省一大佐と大久保朝雄大佐からの要望で新しい慰安所開設を話し合い、第十六軍司令部に新しい慰安所設置を提案したことから始まる。この時、野崎少将は第十六軍司令部の認可を条件にしたという。池田大佐は東京への出張命令が来たため、部下の岡田慶治少佐を代理として野崎少将の一書を持たせ、軍司令部との認可交渉に当たらせた。この時、第十六軍司令部からは、(兵站担当の少佐の供述によれば)「自由意志の者だけを雇うこと」(4)を注意されたという。 こうして岡田少佐は女性を集める手配と4軒の慰安所開設の準備を指示する。(1)
(※ここでも軍慰安所は業者が勝手につくれるようなものではなかったことが確認できる。)
こうした周到な準備の上、1944年2月下旬、スマラン郊外の数カ所の民間人抑留所から女性が集められた。その際、オランダ人女性には読めない日本語で書かれた同意書に署名させたり、「仕事の種類が記されていなかったことがわかった」(公判での池田大佐の供述)。(1) さらに(起訴状によれば)女性に対し「抵抗すれば家族に最も恐怖すべき手段をもって報復する」と脅迫も行われたという。(2)

2ヶ月後、この事件は発覚し、慰安所は4月下旬に閉鎖されることになる。しかし、事件の事実が陸軍省まで伝わったにもかかわらず、事件の関係者は誰一人として処罰されなかった。それどころか責任者の能崎少将は、事件後の1944年に旅団長になり、1945年3月に陸軍中将に昇格し、4月には第152師団長と出世しているのである。(3)

このスマラン事件が裁かれるのは戦後になってオランダによるバタビア裁判によってである。将校7名と軍属4名が有罪となっている。
計画の中心的役割を果たしたとみられた大久保大佐は、戦犯容疑者となったことを知り、故郷仙台で自殺している。遺書には「能崎に責任がある」とあり、これも裁判では証拠資料となった。判決では岡田少佐の行為を「軍の名の下に若い女性を売春目的で強制連行し、理解出来ない日本語の承諾書に署名させ、女性を各慰安所に分け与えて、売春を強制し、強姦した。」と事実認定されている。(1)
(※日本政府はこのバタビア裁判の判決を、1951年のサンフランシスコ平和条約で受諾している。)

この裁判で事情聴取に応じた民間人抑留所長の日本軍の大佐は「自由意志によろうと強制によろうと、慰安所のごときところに入れられた女性に対しては、一般の者は虐待されたものとみなす。」と被告を批判している。ただし、従来から運営されていた慰安所朝鮮人や現地の女性については何ら言及はない。(2)
裁判で弁護を担当した萩原竹治郎弁護人へ、1958年に聞き取り調査が行われている。そこでは、この事件を含め日本軍の戦争犯罪を裁いたオランダによるバタビア裁判全般について「起訴状に出ているくらいのことは事実であったと思う。」「実際にやっているのに無罪になったものもいる。戦犯的事実は起訴された5倍も10倍もあったと思う。」と厳しい意見を述べている。(2)


ところで、この事件を「唯一」とか「例外的」な事件とする主張があるが、そうでないことは、オランダ政府の調査報告書を読むだけでも明らかになる。スマラン事件の現場でもある「スマラン倶楽部」(軍慰安所)で、閉鎖を前にして別の事件が発生しているのである。


フロレス(フローレス)島事件
1944年4月中旬、憲兵と警察がスマランで数百人の女性を検束し、「スマラン倶楽部」で選定を行い、20名の女性が憲兵によってスラバヤに移送された。そのうち17名(20名のうち2人は逃亡、1人は病気で残留)がさらにフロレス島の慰安所に移送され、そこで売春を強制されたと報告している。(1)(3)
(※憲兵はいい関与どころか、ここでも女性が逃亡しないよう監視している。)
裁判記録には、スマラン事件で有罪となった同慰安所の経営者で軍属の古谷厳の尋問調書が残されており、そこでは、法廷でこの事件の事実を認めながら「この事件はスマラン事件とはまったく別件で、私は軍に頼まれて場所を提供しただけだ」と供述している。(1)


報告書にはさらに、マゲランの事件も記載されている。


マゲラン事件
この事件は、1944年1月、ムンチラン抑留所から、日本軍と警察が女性たちを選別し、反対する抑留所の民間人の暴動を「抜刀」して抑圧し連行した。その一部は送り帰され身代わりの「志願者」が送られる。そして残りの13名の女性はマゲランに連行され、そこで売春を強制されたと報告されている。(1)


オランダ政府の調査報告書には、これら3つの事件以外にも、未遂1件や強姦事件1件を含め他に6件、計9件の強制連行や性行為を強制した事件が報告されている。(3)


事件の解説はここまで。


BC級戦犯裁判の全般についていえば、裁判の手続きや行われ方などいろいろと問題があったことは確かであるが、そのことをもって被害者の証言や事件そのものを信用出来ないと全否定するような主張がある。
しかし、この事件の公判記録の供述内容や、戦後に行われた弁護人への聞き取り調査などをみていくと、とてもそうは言えないことが確認できる。やはり、個々のケースごとに問題を検証していく必要性を強く感じます。

また、ここで紹介した事例はすべてオランダが自国のオランダ人(あるいはオランダ系)の女性が受けた被害だけを裁くため調査したものであり、アジアの占領地での女性への性暴力や現地の女性を騙して(誘拐して)慰安婦にした事例*1などは、ほとんど調査も行われませんでした。
裁かれたようなケースは氷山の一角に過ぎないことは留意しておくべきでしょう。(調書からは慰安所に送られた女性のなかに中国人や現地のインドネシア人もいたことが確認できます。)


憲兵みずからの批判


スマラン事件が起きたジャワ島のバタビア(現ジャカルタ)には佐藤源治という岩手県出身の特高憲兵曹長がいました。彼は捕虜収容所での弾圧や拷問の責任を問われ1948年にバタビア裁判で死刑判決を受けています。獄中で書かれた多くの手記は戦後に『ジャワ獄中記』(草思社、1985年)として出版されています。
この手記の中には「僕は唱歌が下手でした」と題する詩があり、靖国神社*2遊就館の「靖国の神々」のコーナーに展示されるなど、非常に人気があるようです。歴史修正主義者で産経記者の阿比留瑠比も「完全に引き込まれ」「涙が止まりませんでした」とBlogで書いています*3

しかし、佐藤の手記には靖国神社では決して展示されることのない手記がある。「東北農村の青年男女に寄す」という故郷の若者への遺言とも言える一文がそれである。そのなかで彼は「田舎出の青年は女性の人格を認めることを知らない」と述べたうえで、次のように記している。(1)

 多くの本来純朴であったはずの農村出の若者たちが、外地の民衆、とくに婦女子にたいし、どれほど非人道的行為を加えたか、それはまさに目をおおわんばかりの破廉恥な残虐行動だったといえる。日本の敗戦は他民族の民心を把握し得なかった点にもあったし、天道への背反による破綻であったともいえる。
佐藤源治 著 /菊池日出海 編『ジャワ獄中記』(草思社、1985年)p122

参考文献


(1)梶村太一郎、糟谷廣一郎、村岡崇光『「慰安婦」強制連行 - 史料 オランダ軍法会議資料×ルポ 私は“日本鬼子”の子』金曜日出版、2008年
(第一章:強制売春事件を裁いたオランダ軍バタビア臨時軍法会議の判決文と証拠書類、第二章:オランダ政府所蔵文書調査報告、他)

「慰安婦」強制連行―史料 オランダ軍法会議資料×ルポ 私は“日本鬼子”の子「慰安婦」強制連行―史料 オランダ軍法会議資料×ルポ 私は“日本鬼子”の子
梶村 太一郎 糟谷 廣一郎 村岡 崇光

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(2)半藤一利保阪正康秦郁彦、井上亮『「BC級裁判」を読む』日本経済新聞出版社、2010年*4
(第二章:憤怒と非難の只中に - 市民の虐待:スマラン慰安所事件 - オランダ軍バタビア裁判69号)
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*1:シンガポールにいたコーナー氏は、1944年4 月の出来事として、インドネシアから集められた人夫たちが船でシンガポールに運ばれてきたが、そのなかに女性もおり「人夫が女であり、若くてきれいだと、カタンの近くにある兵営に送られ、兵隊たちの慰みものになった。通行人は、彼女らがジャワ語で『助けて』と悲鳴をあげるのを耳にし、胸をしめつけられた」と記している。:林博史教授『マレー半島における日本軍慰安所について マレー半島における日本軍慰安所について

*2:バタビア慰安所を経営していた軍属の男性が靖国神社に合祀されていたことが、2007年3月に国会図書館が公表した「新編 靖国神社問題資料集」に明記されていた。:donga.com[Japanese donga] donga.com[Japanese donga]

*3:阿比留Blog:遊就館に行って改めて思いました-国を憂い、われとわが身を甘やかすの記:イザ! 遊就館に行って改めて思いました-国を憂い、われとわが身を甘やかすの記:イザ!

*4:『BC級裁判」を読む』についてはApemanさんが以前に取り上げています。『BC級裁判」を読む』その1 - Apes! Not Monkeys! はてな別館 『BC級裁判」を読む』その1 - Apes! Not Monkeys! はてな別館